浄土真宗の教え1
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念珠(ねんじゅ)
- 念珠は、仏前に礼拝する際にかける法具です。
- 念珠は大切な法具です。丁寧に取り扱ってください。投げたり、畳の上に直接置いたりしないようにしたいものです。
- 家族ひとりひとりが、必ず念珠を持ちましょう。
- 念珠は自分にふさわしいものにしましょう。服装や他の持ちものにくらべて、あまり粗末ではない品を選ぶことが大切です。
- 【念珠の持ち方】
- 合掌の時は両手にかけて、ふさを下にたらし、親指で軽く押さえます。合掌しないときは、左手に持ちます。
門徒式章(もんとしきしょう)
- 門徒式章を着用しましょう。
- 服装は特に規制はありませんが、華美にならない清潔な服装を心がけてください。
- 仏前にお参りする時は、喜びごとでも、葬儀でも、内容を問わず、家庭でも、お寺でも、場所を問わず、式章を着用し、お念珠を持つよう、心がけましょう。
- 心得として、門徒式章は、常に大切に取り扱い、畳の上や床の上など、歩行の場所に直接置いたり、持ったまま、トイレなどに行かないようにしましょう。
聖典(せいてん)【お経本(きょうぼん)】
- 家族がそれぞれ、自分の聖典(お経本)を持つようにしましょう。
- 聖典(お経本)は、直接畳や床など人の歩くところに置いてはいけません。
- 聖典(お経本)を開く際や閉じる際は、いただきましょう。
『御文章』二帖第五通
そもそも、この34年のあいだにおいて、当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもつて他力の安心決定せしめたる分なし。そのゆゑは、珠数の一連をももつひとなし。
さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。
聖人(親鸞)、まつたく「珠数をすてて仏を拝め」と仰せられたることなし。
さりながら珠数をもたずとも、往生浄土のためにはただ他力の信心ひとつばかりなり。
仏旗
仏旗とは六金色旗(ろっこんじきき)ともいい、世界仏教徒共通の旗です。
六金色とは、青・黄・赤・白・淡紅の5つの色と、その5つの色が混ざってできる色(五色混色)とを合わせて6つの色です。
『涅槃経(ねはんぎょう)』の中に「2月15日涅槃(釈尊入滅のこと)の時に、釈尊はお顔から色々の美しい光を放たれました。その青・黄・赤・白・はり・めのうなどの光は、広くあらゆる世界を照らし、この光を受けたすべてのもの【六道=地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間・天上(てんじょう)たち】は、みな苦しみと迷いの全部を除かれました」と記されています。
その光の中「めのう」はその色は淡紅であり、「はり」は水玉ともいわれ無色透明であり、他の五色を映し出すので五種混色として表しています。
この六金色旗はアメリカの仏教徒オルコット氏が、仏教研究をされて『涅槃経』により創案されたそうです。
親鸞聖人のご生涯
浄土真宗は、親鸞聖人によって示された教えです。親鸞聖人の生涯を簡単に辿ってみます。
親鸞聖人御影(鏡御影)本願寺蔵
親鸞聖人は承安3年(1173年)に京都の南、日野の里で誕生されました。
父は日野有範(ひの ありのり)、母は詳しくは分かっていませんが、吉光女(きっきょうにょ)と伝えられています。
治承5年(1181年)9歳の春、伯父の範綱(のりつな)にともなわれ、京都三条白川にある慈円(じえん)の坊舎において得度し、範宴(はんねん)と名のられました。
出家すると比叡山に登り、以後20年にわたって天台宗の学問と修行を中心に修学されました。
比叡山は宝亀4年(785年)、伝教大師(最澄)によって開かれた仏道修行の根本道場です。聖人は横川の首楞厳院の堂僧として修行に励まれました。
堂僧とは常行三昧堂で不断念仏を修する僧のことをいいます。
恵信尼公御影 龍谷大学図書館蔵
聖人は20年にわたる修学にもかかわらず、自力聖道門では生死(しょうじ)を解決することができず、建仁元年(1201年)29歳の時、比叡山を下り聖徳太子の創建された六角堂(頂法寺)に参籠されました。
聖人は太子を「和国の教主(日本のお釈迦様)」として尊敬されていましたので、今後の歩むべき道を尋ねられたのです。
参籠してから95日目の暁、聖徳太子の夢告をうけました。「廟窟偈」とも「行者宿報偈」ともいわれる夢告に促されて、東山吉水で専修念仏を説かれていた法然上人を訪ね門弟となりました。
そのときの様子について『恵信尼文書(えしんにもんじょ)には、六角堂に参籠されたときと同じように、どんな天気であっても、どんなことがあっても、ひたすら「生死出づべき道」を求めて通い続けたと記されています。
法然上人御影
法然門下に入った親鸞聖人は、元久2年(1205年)4月14日、法然上人の主著である『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう・選択集)』の書写と、法然上人の真影を図画することが許されています。
その際に、法然上人はみずから筆をとり「選択本願念仏集」の内題の字に、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」の字と「釈綽空(しゃくのしゃっくう)」という当時の聖人の名を書いて与えられました。
同年7月には、法然上人の真影に讃銘と夢告によって改名された善信(ぜんしん)の名を書いてもらっています。
承元元年(建永2年・1207年)念仏弾圧によって、専修念仏は停止(ちょうじ)され、門弟4名が死罪、法然上人、親鸞聖人などの8名が流罪となりました。この時、聖人は越後(現在の新潟県)に流され、非僧非俗の道を歩まれました。妻の恵信尼(えしんに)様は越後の豪族、三善
為教(みよし ためのり)の娘といわれています。
流罪は建暦元年(1211年)に解かれていますが、帰洛されることなく建保2年(1214年)、妻子とともに常陸(現在の茨城県)に移住され、関東で約20年におよぶ伝道生活を送られました。
62~63歳の頃に帰洛されていますが、その理由は明らかではありません。
帰洛された聖人は、畢生の書である『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を加筆訂正されたり、『浄土和讃』『高僧和讃』の執筆や門弟の質問に書簡で答えたりされていました。
建長初年(1249年)頃から、関東の門弟間で念仏理解についての混乱が生じ、その解決をはかるために、聖人は息男の慈信房善鸞(じしんぼうぜんらん)を名代として関東へ派遣しました。
しかし善鸞は混乱に巻き込まれてしまい、聖人の説くところと違った教えを説いて、いよいよ混乱させることになりました。
それを知った聖人は、建長8年(1256年)、84歳の時、善鸞を義絶(ぎぜつ)し親子の縁を絶ってしまいました。
聖人の撰述には、前記の書をはじめとして、『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』『入出二門偈』『正像末和讃』『三経往生文類』『尊号真像銘文』『一念多念証文』『唯信鈔文意』などがありますが、その多くは80歳を過ぎてから著されたものです。弘長2年(1262年)11月28日、波乱にとんだ生涯ではありましたが、弟尋有(じんう)の坊舎で末娘の覚信尼(かくしんに)様らに見守られながら90歳で往生されました。